じぶんインタビュー

“小屋のある風景”に
惹かれ、諭され。
写真は、もうやめない

山野井咲里(やまのい・さり)さん

フリーランス フォトグラファー/ライター

1974年茨城県生まれ。地元の短大を卒業後、語学留学先のイギリスで写真の道に進むことを決意。都内スタジオ勤務を経てフリーに。幅広い媒体に向けた撮影を担う。子育て期間中に一度写真の仕事から離れるも、2014年、約20年振りに茨城にUターンし再開。写真とあわせてライティングも行うように。

open_in_newSARI YAMANOI

直感で進むと決めた道、スタジオ勤務で一から学ぶ

写真を始めたのはいつですか。

山野井さん短大を卒業してイギリスに滞在中に、写真の道に進もうと決めて、帰国後、都内のスタジオに就職しました。そこからです。

イギリスの時点では始めてもいなかった。

山野井さんイギリスに行くまでは写真を職業にしようという考えはまったくなくて、コンパクトカメラしか持っていませんでした。イギリスで写真を学んだわけでもありません。

きっかけはなんだったのでしょう。

山野井さん大きなきっかけがあったわけではないんです。私はもともと「視覚の人」だったというか…写真に限らず絵画でも映像でも、視覚的に受け取るものに心を動かされるという自覚はありました。イギリスは美術館が無料だったりと、刺激は受けやすかったですね。あと、父の一眼レフを小学生のときに触らせてもらって、自分も意外とできると感じた記憶があります。でも、この道に進もうと決めたのは、直感からが大きかったように思います。

イギリスで、直感的に。

山野井さんはい(笑)。

イギリスにはなぜ行かれたのですか。

山野井さん短大で親しくしていた友だちから、成人式にかかる費用をイギリス留学に使わせてもらうと聞いて、「それ、いいな」と。家族は地元で就職するものだと思ってましたし、私もそのつもりでリクルートスーツを用意していたので、母親に反対されました。でも一度決めると曲げないタイプで、資金を貯めるため掛け持ちでバイトに明け暮れたんです。母も最後は応援してくれました。

そうでしたか。そして帰国後は、上京してスタジオに就職したんですね。

山野井さん受けたら、運良く採用されました。そこで一から、実践で学んでいきました。

仕事の内容は?

山野井さん主には、スタジオでライティングをセットしたり、フィルムの交換をしたりと助手的な仕事でした。当時はまだフィルムだったことでの緊張感がありましたし、とても厳しかったです。鍛えられました。後々役に立ちましたけど、失敗は多かったと思います。気の散りやすいところもあって、デキはよくありませんでした。

いかにも厳しそうな現場ですけれど、挫けませんでしたか。

山野井さん落ちこみはしましたけど、この道を諦めようと思ったことはなかったですね。俳優さんなどのインタビューを横で聞いているのも好きでしたし、その時期は仕事とは別に自分の作品撮りもしてまして、楽しいことも多かったんです。

ただきついだけではなかったので頑張れた。

山野井さんそうですね。でも、「咲里、(やりたくないのが)すごい顔に出てる」と先輩に言われたこともあります。撮影が長くて、「まだかなぁ」とか思ってたんでしょうけど、自分ではポーカーフェイスのつもりでした(笑)。

あはは。顔に出るタイプですか?

山野井さんいえ、ポーカーフェイスのつもりで…(笑)。そんなときもあったかもしれませんが、知らないことばかりだったので、できない分、一生懸命ではありました。できなかったし、できないから、いままで続いてるんだと思います。

できないから続いてる。そうかぁ。

独立後、充実するも、離婚して写真を手放して

山野井さんスタジオを2年で辞めてフリーになりました。普通はまず、好きなカメラマンさんのアシスタントとして経験を積むのに対し、私はいきなり、でした。それも続けてくることができた理由のひとつかもしれません。私にも、尊敬したり、強く影響を受けたりした方はいますけど、専属のアシスタントとなると本当に厳しいので、務まらなかったと思います。

フリーになって、すぐに写真で生活できたのですか?

山野井さんはい。スタジオを辞めるとき、あるカメラマンさんに、「ここを辞めてもマックでバイトするようなことはするな」って言われたんですね。その言葉は守ることができました。

すごいじゃないですか。

山野井さんデキが悪いなりに一生懸命な姿を見ていた方が、あちこちにいてくれたみたいです。スタジオ時代のご縁で、引き続きアシスタントとしていろんな現場に呼んでもらいました。カメラマンさんごとに撮影の対象が違うので、それぞれ勉強になりました。中でも特にお世話になったカメラマンさんがいます。この方とは、広告や映画など、貴重な現場をたくさんご一緒して、多くを学ばせてもらいました。

うれしいですね。よかった。

山野井さん振り返ってみると、お世話になった方のお顔は何人も浮かびます。恵まれてましたね。雑誌の取材の撮影など、少しずつ自分の仕事も増えていった時期でした。

頑張った山野井さんの成果ではないでしょうか。ご自分の作品としては、当時はどんなものを撮っていたんでしょう。

山野井さん最初は人物です。瞬間瞬間のいい表情をとらえることが好きでした。本人に頼まれて、長く友人を撮り続けたこともあります。ヌードまで撮りました。

そうですか。楽しそうですし、順調だったんですね。でも、一度写真から離れたんですよね。

山野井さん子どもが4歳のときに離婚してシングルマザーになって、子どもが小学校に上がる時期に時間が不規則な写真の仕事は続けられないと、そのときはきっぱり諦めました。

東京で、その年齢のお子さんがいて、となると、心身共に大変でしたよね…。

山野井さん大変でした。離婚は自分の都合だと思っていたので、実家を頼ることも考えず、転職して、とにかく目の前のことに手一杯な毎日でした。最初は世界の手仕事などを扱う都心のショールームで働きます。写真とは関係のない仕事でしたが、そこでもいまにまで続く財産となる出会いがあって、「ものを見る目」というものを教わったと思っています。2年後には、さらに時間的融通が利く仕事をと、友人に教えてもらったガスの検針を始めました。そのころにはもう、カメラも機材も手放していました。未練を感じる余裕もなかったですね。比較的安定した収入は得られていたので生活の心配こそなかったですが、自分でもよくやってたなとは思います。ひとりで大変でしたけど、結婚も大変だったのでどっちもどっちかな(笑)。周囲の人に恵まれたのは助けになりました。

先輩カメラマンから借りたハッセルブラッドでご友人の結婚記念写真を撮影したとき。2004年くらい。

Uターンで、いよいよあきらめた写真を再開

東京にはトータルで何年?

山野井さん約20年です。

長いですね。

山野井さん長いんです。東京はいまでも好きですね。よく、東京が苦しくてUターンする人がいますが、私は逆でした。生まれ育った茨城の地元が好きになれなくて、東京に出てすごく楽になりました。感じていた地方での閉塞感から解放されたというか。だから、東京を引き払うときは迷ったし、悩みました。

Uターンするきっかけは?

山野井さん父親の病気がわかって、母から促されたんです。そのころ小学校の高学年だった子どもが学校に行けなくなってきて、環境を変えるほうがいいのかなと考えていたところでもありました。実家が私が生まれ育ったまちから移った先の、常陸太田市を気に入ったのにも背中を押されました。

いろいろ、そういうタイミングだったのですかね。でも、好きになれないと思っていた茨城の中で、好きな土地に出会えたのですね。

山野井さん茨城をロケ地にした映画の撮影で、スチール助手をしたことがありました。映画の設定上、撮影がすべて夜間だったので、常陸太田の実家に1ヶ月泊り込んだんですね。毎朝、始発電車で帰途についてました。その車窓から見える常陸太田の朝日の風景が、すごく好きだったんです。ここなら住んでもいいなと思いました。

いまも好きですか。

山野井さんはい。ここだから撮れるものにも出会って。

よかったですねぇ。どんな流れで再び写真に戻ってきたんですか。

山野井さん茨城にUターンを決めたときは、これで本当に写真と縁がなくなったと思ってたんです。東京では、子どもに手がかからなくなってきたら…という気持ちが芽生えていたのですが、「あぁ、これでもう終わりだな」って。実際、戻ってすぐは市役所でバイトの口を見つけて働きました。それがひょんなことから、バンジージャンプのジャンプ台の隣に立って撮影する仕事をさせてもらうことになって。

バンジージャンプ!

山野井さん初めて見たとき、「これはない」と思ってたんですけど…(笑)。足元から100メートル下まで丸見えなんですよ。2ヶ月間毎日怖かったです。

うわー!2ヶ月間怖くて、そのあとは?

山野井さんついに慣れる日がきまして、スタッフとしてテストジャンプするまでになりました。

あはは!おもしろい。やっぱり慣れなんですね。

山野井さんその場所での撮影は慣れましたけど、ジャンプに慣れることはなかったです。

山野井さんの、いまの感じのテンションでバンジージャンプするのはとても想像がつきません!

山野井さん「イエーイ!」とか、テンションを上げるのがすごく大変でした…(笑)。

いろいろ経験されてますね(笑)。

山野井さんそうですね(笑)。その仕事は結局、子どもとじっくり向き合う時間が必要になって、じきに辞めたのですが、通勤路の風景がよくて癒されました。中でも、農業用具を入れる古い小屋が気になりだして、撮影し始めたんです。

写真展でも展示されていた小屋ですね。

山野井さんはい。気になり始めると、いろんな小屋が目に入るようになりました。古いトタンの屋根が多いです。

心を惹かれた理由は、言葉にできるものでしょうか。

山野井さん周りの景色を含めて惹かれたんだと思います。なんと言っていいか、ちょっとうまく言えませんが、時間が止まったような、そこだけ不思議な空間がある感じがして。空気感、でしょうか。眺めるうちに、長年抱えていた劣等感が解消された瞬間があったんです。

景色は最高!…しかし高い。これは怖い!(左端がご本人)

被写体との出会い。写真は、もうやめない

劣等感が?

山野井さん小さいときから生きづらさを感じていました。具体的に何があったというより、世の中に対応するのが大変だったんです。発達障がいの傾向があったからなのか、いろんなことに敏感で、つらくて、できることならこの世の中にいたくないと思うこともありました。

風景を見ていて、そんなつらさが解消する“瞬間”が、あったのですか。

山野井さんそうなんです。あるときふと、「あ……」って。私が好きな小屋のある風景は、一般的に見て感動的なものではないし、人の住む建物だと動いている感じがあるんですけど、それもなくて、ただそこにあるだけ、なんですよね。あってないような、“無”みたいな存在で。自分のことを投影したのかもしれません、私の悩みも、あってないようなものだな、たいしたことじゃないなと、なにか風景に諭されたような瞬間でした。

いま、そのシーンを想像しました。そのころからいままで、山野井さんの、小屋のある風景への思いは変わりませんか。

山野井さん変わりません。ただ、人には、「なにこれ?」と言われるようなものだろうと思っていたので、自分にとって大事な風景を、そう言われるのが嫌だという思いから、しばらく誰にも見せませんでした。最初に見てもらったのは名のある写真評論家の方です。どうせ「なにこれ?」と言われるなら、せめて写真がわかる人がいいと思って。

それまでこっそり撮りためてたんですね。評論家の方の反応はいかがでしたか。

山野井さんおもしろがってくれました。

ポジティブな反応だった。

山野井さんはい、よかったです。その後、何度かの写真展で地元の一般の方に見てもらう機会があって、そこでも、「馴染みのある光景だけど、こんな視点があるんだ」などと喜んでもらえたみたいです。

その地元で、最近は、ライターとしても活動されていますね。以前から興味があったのでしょうか。

山野井さんいえ、もともと話すことにも苦手意識があって、仕事としては考えたこともなかったです。撮影担当だったはずが、はずみのような流れで原稿も任されることがあって、そのまま…。初めのうちはすごく時間がかかって、徹夜仕事に突入したりして、でもほんとにちょっとずつなんですけど、コツをつかめてきたころには、実績も増えてました。

書くことを始めてから、発見はありましたか。

山野井さんずっと写真や映像だけだったので、言葉の力…言葉にしかできないことや、言葉に変換することのむずかしさ、おもしろさは、あらためて発見できたことだと思います。それから、言葉で表現してみて、自分の中に熱いものがあるんだと気づきました。

熱いもの、ですか?

山野井さん自分のまわりにいるすごいなぁと思う人とか、美しい手仕事とかへの思いです。自分の中にそういう対象への熱い思いがあることが、言葉にしてみてはっきりしました。

表現という意味では、写真だけのときより充実した、と言えるのでしょうか。

山野井さんそうですね。写真は写真で、もっと深めていきたいですが、言葉の力をプラスすることもできると思うので、これからも挑戦していきたいです。

写真から遠ざかっていた時期もあった山野井さんですが、写真とのつき合い方に、以前と変化はありましたか。

山野井さんいまは記録することの大切さも考えて撮っています。それが、自分にできることのひとつだと思っていて。具体的な被写体は、いまはやっぱり小屋のある風景です。古い建物を、細かく描写して残したいです。お願いだからすぐ壊さないでほしいという思いがあります。あとは身近な手仕事なんかも。もう、撮ることは仕事でなくても続けていこうと決めました。やめません。自分にできることとして、ずっとやめずに続けていこうと思っています。

最初に撮影した小屋がこちら。ある日突然気になり出して、「気になって、気になって、とうとう撮り始めた」のだそうだ。
地元、常陸太田の「ちょっとのお蕎麦とGallery Cafe 今日ハ晴レ」での個展。写真評論家の方の紹介がきっかけで、写真家の松本美枝子氏にキュレーションをしてもらった。

編集後記

ご本人がおっしゃるように、決して饒舌ではない山野井さんからは、嘘のない言葉を探しながらお話しされる印象を受けました。写真や被写体、そしてお子さんに対しても、向き合い方が純粋で、曇りがないのだろうと思います。
場数を踏んできたことの強さというは、自覚する以上で、当人も思わぬところで発揮されたりするものですよね。特に表現においては。だからこれからも、たくさん撮って、書いてくださいね。写真を「もうやめない」とおっしゃる表情は、とっても清々しくて素敵でした!

(2021年1月インタビュー)

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