「10代から全力疾走」
疎外感に悩み、喪失や病気に苦しむも、
喜びも多い人生。いつか娘に伝えたい
Keiさん
1997年横浜生まれ。フィリピン人の父と日本人の母を持ち、小4から中2までフィリピンで育つ。戻った日本の中学校に馴染めず、芸能スクールが居場所であった時期も。一転して楽しかった高校生活を経て、社会に出てからは紆余曲折。たまたまたどり着いたファストフード店で勤務する中、現在の夫に出会う。双極性障害に苦慮しながらも現在は一児の母として穏やかな日々。仕事のほか、文章を書くこと、写真を撮ること、ヨガなど、自己の充実した世界を持っている。
小5から中2まで、フィリピンの父のもとで生活して
小さいころのKeiさんは、どんな子どもでしたか。
Keiさん生まれたときは690gの超低出生体重児で心配されたのですが、大きな病気もなく育ちました。2〜3歳のころは、癇癪がすごかったらしいです。自己主張が激しくて、我の強い子でした。小学校に入るころにはおさまって、漫画を描いたり本を読んだり。描いた漫画を友だちに配っていたら、いまでも持っている人がいると知って…、もう恥ずかしくて(笑)。
あはは。表現することが好きだった。
Keiさんそうみたいです。勉強は好きではなかったけど、作文は得意でしたし、書くことを含めて、表現することはいまも好きです。
個性的なご家族の中で育ったそうですね。
Keiさん母は、私と共通点が多くて、見た目も中身も似ていると周りの人にも言われます。その分、衝突も多くはありますが、仲はいいですね。亡くなった父はフィリピン人で、職業はダンサーでした。都合が悪いときだけ日本語がわからなくなる(笑)すごいマイペースの、でも周囲を明るくする根っからのエンターテイナーでした。年の離れた姉は、私とは何もかもが違っていて、姉じゃなければ仲良くならなかったタイプの人だと思います。会うとその違いがおもしろくて楽しいです。
小学校5年生でフィリピンの、お父さんのもとで暮らし始めた。
Keiさんはい。両親は私が小2のときに離婚したんですね。しばらく母と暮らしたのですが、パパっ子だった私に、どちらと一緒に住みたいか、あるとき母が尋ねてくれたんです。母には申し訳なかったのですが、子どもだったので深い考えもなく、「パパ」と答えました。その父がフィリピンに帰国することになったときにもどうしたいか聞かれて、旅行気分で「フィリピンに行く!」って。
あちらに住んでみてどうでしたか。
Keiさん日本とはまったく違いました!時間の流れがゆったりで、人も南国気質というのですかね。みんな、待ち合わせの時間に起きる感じ。はじめはびっくりしました。夕方5時までの郵便局に4時半に行って、「今日はテレビを見たいから閉める」と言われたこともあります。何事も、「今日できなければ明日、明日できなくてもそのうちやればいい」という文化というか。大人になっていたら無理だったかもしれませんが、「これが外国か」と、子どもの私は割とすんなり順応しました(笑)。
大変なことはありませんでしたか?
Keiさん日本人学校が遠かったので、地域の普通の学校に入ったんですね。「日本人が来た!」と、こぞってクラスに見物にくるほど、私は珍しい存在でした。英語もタガログ語もわからなくて勉強についていけないし、行くのが嫌になって、父がインターナショナルスクールに転校させてくれるまでは不登校でした。
ホームシックというか、さみしい思いはどうでしたでしょう。
Keiさんそれが、あちらには、いとこだけで100人くらいいて。
100人!
Keiさんめっちゃビッグファミリーなんです。日本から来た私のことは、すぐに「おかえり!」と迎えてくれて、母代わりもいっぱいいました。学校に行くための制服や靴や文房具なんかも、そういう親戚が全部用意してくれましたし、いとこ100人だから、毎日誰かのバースデーパーティをするような日々で、一人でいることがなかったんです。道を歩いていても、学校に行っても、親戚だらけ(笑)。そんなふうなので、さみしいと感じることはなかったです。
逆にいま、あちらが恋しくなることはありますか?
Keiさん心が疲れたときとか、日本のせかせかしたところが堪えるときは。日本への帰国は、進学とか就職とか現実的なことを考えたとき、選択肢が限られてしまうであろうフィリピンに住み続けるのはむずかしいと思って決めたんです。間違ってはいなかったとは思いますけど、遊びに行けるなら毎年でも行きたいですね。
中学から一転、自分を出せた高校時代。
ステージにも立つ!
中学2年生で日本に戻って来たときは、ギャップに慣れるまで戸惑ったのではないですか。
Keiさん母が当時住んでいた千葉の、公立の中学校に転入して、まず校則にびっくりしました。髪型をはじめ、全部細かく決められているのが理解できませんでした。反発心で、初日から従わずに違反とされていたハイソックスで登校したら同級生に睨まれました。そういうキツキツなところがこわかったです。帰国子女という点にだけ目を向けられて、中身を見てもらえないのもつらかった。自分を出すことができなくて、昭和なタイプの年配の先生との方が打ち解けていたくらい。深くつき合える友だちが欲しかったです。
そんなとき、原宿でスカウトされて。
Keiさんはい。ワタナベエンターテインメントスクールというのに入らないかと声をかけられました。すぐに興味を持って母に話すと、「やってみたら?」と言ってくれたので、週に一度通い始めました。そこには全国から同世代がたくさん来ていて、一生ものの仲間にも出会えました。歌やダンスのレッスンのあと、決まってみんなで渋谷のカラオケボックスに行くんです。その2時間が楽しみでなりませんでした。
居場所を見つけた。
Keiさんそうなんです。あれが私の青春でした!学校ではおとなしく内向的で通しながら、「ほんとの私はこんなじゃない!」って、内心思って過ごしてました。
芸能スクールでは、自分を解放できたんですね。
Keiさんそうですそうです!
高校は、一転して楽しかったそうですね。
Keiさん同じ県内の、隣の市の高校を受験して環境を変えたのが正解でした。みんな知らない者同士、同じ条件でのスタートだったのが良かったです。
中学で感じたような疎外感を持たなくてよかった。
Keiさんはい。両親が離婚するまで父の苗字だったので、日本の小学校では名前からして浮いてたんです。離婚後に母の苗字になって喜んでいたら、フィリピンに行くことになって。長い間、「どっちにいてもガイジン」みたいな、複雑な気持ちがありました。通った高校には、私と同じ、外国にルーツを持つ生徒がたくさんいたこともあって、それもだんだん薄れてきました。
芸能スクールは?
Keiさん丸一年通って辞めました。ステージに立つのも演技するのも楽しくて、苦手だと思っていた自己表現もできる自分に気づくことができました。最終的には4つの芸能事務所に声をかけてもらったんですけど、結局、その道には進みませんでした。
どうしてですか?
Keiさん事務所に所属したらもう女優だと思い込んでいたら、登竜門的にグラビアが待っていると知って耐えられなかったんです。「そんなのクラスメイトに見られたらどうするの!無理!」って(笑)。真面目にやっていたつもりでしたけど、元々が、苦しかった中学からの逃げ道だったせいもあるかもしれません。私よりずっと真剣に、何としてでもあの世界で頑張ろうとする人もいっぱいいたので、比べると熱意が足りなかったと思います。学園ドラマにエキストラ程度で出演したとき、主役級の人たちを間近にして、「本物の芸能人だ!」とはしゃいだくらいで終わりました。
それからは、歌やダンス、演技はしていない。
Keiさんダンス部で、友だちと楽しく活動しました。それと、高2の文化祭で、『ライオンキング』をやることになったとき、主人公のシンバ役が回ってきたんです。私が芸能スクールに通っていたことは知られていたので、「できるんじゃん?」といった感じに。
どんな気持ちでしたか?
Keiさんすごいうれしかったです!私は、自分から手を挙げてまでガツガツは行けないのですけど、チャンスがあれば出たいタイプで。本来は目立ちたがり屋なんだと思います。
お父さまのDNAでしょうかね。
Keiさんそうかもしれません(笑)。やる気満々で、台本をもらったその日に台詞を全部覚えました。
すごい!みんなに驚かれたのではないですか?
Keiさん翌日には台詞が完璧に入っていたので、「おぉーーっ!」って。
うれしかった。
Keiさん気持ちよかったです!もう、このときばかりはと注ぎ込んで、スクールのときよりも頑張ったかもしれません。そしたらその文化祭で、投票で選ばれる最優秀賞をもらえました。
楽しかった高校生活の、さらにハイライトですか。
Keiさんはい!最高でした。ただ、何度かの上演のうちの、初回の客席の最前列、ど真ん中に母の姿を見たときは一気に集中力を失って、台詞も飛びかけました!母が終わった後も泣いていて……。「恥ずかしいから早く帰って!」と、早々に追い返しました。いま思えば、娘の晴れ舞台が見たくて、張り切って来てくれたんですよね。
いまはKeiさんも、娘さんを持つお母さんですが、どうですか、逆の立場になってみて。
Keiさん私も保育園の発表会で泣いてますからね、まったく同じ母親になろうとしています(笑)。親心を理解できなくて、「あのときはゴメン」です。
社会人。
頑張って働くも、父の訃報をきっかけに・・・
他に、高校時代の印象に残る思い出は?
Keiさん3年間続けたバイトですかね。お寿司屋さんのホール係だったんですが、そこの女将さんが鬼で(笑)。初日に、緊張しすぎてお味噌汁をお客さんにぶちまけてしまいました。逃げ出したかったんですけど、「あぁあ、あのバイトの子はすぐ辞めるね」と思われたのが悔しくって、一日一日頑張りました。1000円稼ぐことの大変さが身に染みてわかったのも、よかったと思います。
頑張ったバイト代は何に使ったのでしょう。
Keiさんパソコンを買いました。それと、一眼レフのカメラを。
お洋服や化粧品ではなく。
Keiさんそういうのも買いましたよ。でもみんなのように、「もっと高い洋服や化粧品が欲しい」みたいなのはなくて。パソコンやカメラには、母もびっくりしてました。
頑張って、コツコツ貯めたんですね。
Keiさんはい。お寿司屋さんでは、新人さんのトレーニングを任されるまでになったんですよ。卒業するときに開いてくれたバイトの送別会で、女将に、「その強さを持ち続ければ、どこでもやっていけるよ。よく頑張ったね」って言ってもらえてうれしかったです。自信になりました。たくさん叱られましたけど、厳しいだけでなく愛情のある女将でした。
そんな充実の高校生活を終えて社会人になると、また試練が待ち受けていたのですね。
Keiさんずっと憧れだった空港での仕事に就くことになって、寮生活も始まりました。最初の晩は、一人きりの部屋が静かすぎてよく眠れませんでした。身体が丈夫なほうでもないのですが、成田空港で毎日12時間くらいの勤務をこなして、お休みは月に6日。振り返るとブラックな職場だったんでしょうけど、ひたすら、教わったことをしっかりやろうと頑張りました。
抜け出したいとは思わなかった。
Keiさん同僚も先輩も当たり前のように働いていたし、友だちのほとんどは大学や専門学校に進学していたし、比較対象がなくて疑問に感じることもありませんでした。高校時代のバイトでは手にしたことのない、10万円を超えるお給料に、大金を稼げている気分にさえなっていました。同僚とボーリングに行ったり、休みの日には近くのアウトレットモールで買い物したり、自由に使えるお金があることはうれしかったです。
まだ10代ですもんね。
Keiさんはい。一年目は、体がキツくても、むしろ前向きにやっていたんですけど、父が亡くなったとの報せがあって、そこから。
心身の状態が悪くなってしまった。
Keiさんすぐにフィリピンに駆けつけたかったのにパスポートが切れていて、手続きをするうちに父の埋葬が終わってしまって……。間に合わず、ちゃんと顔を見てお別れできなかったのがすごくショックでした。父と直接会ったのは、中学生の私がフィリピンから帰国するときの、空港が最後でした。父は悲しそうな顔で……、きっとあの後泣いたんでしょうね。泣き顔を見せまいとか、早々にくるりと背を向けて行ってしまいました。ずっと、就職してからも、連絡は取り合っていました。でも、会おうと思えば会えたのに会わずじまいだったこと、亡くなる半年前にLINEでケンカして、その後メッセージがきても無視することがあったこと、そういうのが悔やまれて。
つらかったですね。
Keiさんどうしても仕事は続けたかったのに、行こうとしても体が動かなくてやむなく退職しました。ひとまず身を寄せることになった、母の住む横浜のアパートは6畳一間で、友だちとの電話もトイレでするくらいでした。精神的に不安定だろうと、脱出するためには働くしかないと気ばかり焦っていた私にある日母が、「もっと楽な気持ちでやったら?」と言ってくれたんです。社会人である以上、正社員として職に就かなくてはいけないとか、変にこだわって仕事を探していたのですが、それでなんとなく吹っ切れました。
ご自分の持つ社会人像にとらわれて、弱っていたご自分をさらに追い詰めていた。
Keiさんそうなんです。それが、「いま(そういう社会人に)なれなくてもいいか」って開き直ったら、だんだん心も回復してきました。たまたま求人を目にしたファストフードでアルバイトを始めたら、意外に合っていたんですよ。店長が教育熱心で、どんどん仕事を教えてくれるので、やりがいも感じるようになっていきました。そこでいまの夫にも出会ったので、わからないものですよね。
結果オーライ、ですか。
Keiさんそうなのですが、引越し資金を貯めていざ一人暮らしを始めてみたら、想像以上に大変でした。家賃の心配が要らなかった会社の寮での一人暮らしとは経済面でのプレッシャーが違って。一人だとごはんを作る気にならなくてコンビニで済ませたり、お酒が飲めるようになって飲み始めたのも悪かったんだと思います。落ちこみや不眠のうつ症状が、また出てきてしまいました。しばらく、人生の一番暗い時期だったと思います。
さまざまな経験を、娘のために活かせれば
その後結婚、出産を経ていまに至るまで、幾度かメンタルの不調に苦しんでいらして、近年、双極性障害との診断も受けていますね。どのように受け止めていますか。
Keiさん診断がついてほっとしたところもあるんですよね。以前は、みんな頑張って働いているのに私だけ…って、自分を責めました。仕事に行けず当日欠勤をしたときは特に、打たれ弱すぎるのかと、なおのこと落ち込んだりして。性格ではなく病気によるものだと専門家に言われてからは、受け入れきれているかはわからないですけど、しょうがないか、とは思っています。同時に、それでも仕事も子育てもできている、という自負はあるかもしれません。障害者手帳を持ってはいるけれど、すべてが人と違うわけではないので。
ご病気もでしょうし、さまざまな経験をされてきたからこその、ご自身の強みというのは、なにか感じていますか。
Keiさん人に寄り添う力は身についていると思っています。やっぱり、多くを経験してきたので、相手がどのようなものを抱えていても、あまり動じないとも思います。だからといって、自分が大丈夫だったから他の人も大丈夫だとは言いませんし、思いもしません。
すべての経験が活きるのが、子育て、でしょうか。
Keiさんそうですね。3歳の娘は最近、幼稚園があまり合わなくて、ストレスを感じている様子でした。人生最初の壁だったかもしれません。より自分に合う環境を見つけてあげるのが親としてできることだと思って、転園させました。正解だったみたいです。
Keiさんの、中高にはじまる経験が活きましたね。
Keiさんそうなんです。子どもだから、まだ小さいからとか関係なく、人として接するようにしています。TVのチャンネル争いにいたるまで(笑)、それぞれに対等に主張して、同じ目線で、真剣に話し合って。
お子さんとに限らずですが、Keiさんは、他者との境界線を適切に引けている方だなと感心してお聞きしています。子育ては、楽しめていそうですね。
Keiさん楽しいです。大変ですけど、楽しい。生まれる前は、子育てを怖がっていたんです。自分に務まるかわからなくて不安でした。でもやってみたら、恐れていたイヤイヤ期だって、話せば意外と通じるじゃんって(笑)。
「意外と通じる」っていいですね!では、いまは充実している。
Keiさんそう思います。いわゆる裕福な暮らしでなくても、満たされていると感じています。子育ても大変には違いないですけど、10代から全力疾走してきたことを思えば、いまは穏やかで、落ち着いて過ごせていると感じられます。
ご夫婦としても。
Keiさん私が引っ張っていく相性で、それがお互いちょうどいいみたいです。
このインタビューは、娘さんがいつか悩んだときに読んでもらいとおっしゃっていましたね。
Keiさんはい。将来、私の経験から何か拾って、力にしてもらえたらいいなと。親としては、彼女が居場所にできるコミュニティをいくつか持てるようにして、ひとつがダメなときももう一方が逃げ場になるよう、環境を整えてあげたいと思っています。いろんな選択肢があるほうが生きやすいと、身をもって実感しているので。
ご自分のこれからについてはどうですか。
Keiさん特別なものを持たなくても、小さなことに感謝して、小さな幸せを見つける力は持っていたいなと思っています。今日の晴れた空を喜べるよう、心豊かに生きていきたいです。心が動いたときに書いたり撮ったり、文章もカメラも続けたい。私は仕事も好きなので、無理をしすぎないようにしながら、仕事もしていきたいです。
編集後記
子どもの意志を尊重するご両親だったのでしょうが、それにしても、小学生からご自分で考え決断してきたことの大きさに驚かされます。ご自身のことを誰かに決められるのはいまも嫌いだそうで、一貫して自分軸で生きてきた方です。おそらく自他ともに認める大変な頑張り屋さんでもあり、「10代から全力疾走」の言葉そのままだったと推察します。
ご家族はじめ、周囲への愛情が深く、他者に対するやさしいまなざしが印象的でした。「素敵なママになれているか自信はありませんが」とのことでしたが、十分に、素敵なママだと思いました。
(2026年6月インタビュー)